top of page
検索

115 目を閉じてでもできることが天職

  • sapporobukkyoujuku
  • 1月30日
  • 読了時間: 2分

 もし私が子供たちに「私はどんな学問を選べばいいか困っています」と相談されれば、「あなたが目を閉じていてもできることは何ですか? 最も単純で面白くない学問は?」と聞きます。子供が「これです」と答えれば、「では、それをやりなさい。それがあなたに向いています」と言います。しかし、子供自身は、それを選ぶのは嫌で、「私は別のあの学問をなんとかやりたい」と言うのです。私は「あれってあなたにとっては難しいですよ。やれば格好いいと思っているかもしれませんけど、能力はありませんよ」と教えます。人間は、能力がないものに未練を感じるのです。能力があるものは、目を閉じていてもできます。だから、あまり大胆な道とは感じないのです。でも残念ながら、それが自分の道なのです。ですから、仕事を選ぶときでも、「目を閉じていてもできることを選んでください」と私は言います。本人はそれを単純な仕事だと思うかもしれませんが、そうではないのです。自我による勘違いなのです。目を閉じてでも失敗なくできることであれば、ストレスがかかりません。それを仕事にすれば、簡単にできてストレスもかかりません。失敗もしません。雇った人から見れば、見事な仕事ぶりです。給料もあげたくなります。双方が楽しいでしょ。『一瞬で心を磨くブッダの教え』第3章 社会で成功するために《仕事》アルボムッレ・スマナサーラ サンガ出版【仏教と科学が発見した 「幸せの法則」 - 「心」と「私」のメカニズムを解き明かす p139】

 
 
 

最新記事

すべて表示
nāma とrūpa を区別して発見する

nāma とrūpa を区別して発見する それから客観的に確認作業を実行してみるようになります。そうなると、手を上げます、下げます、と実況するのであって、それは「私の手」という気持ちから離れています。ただ「手」という客観的な物体として観るのです。座る瞑想もこの調子でおこないます。集中力があり、客観的に確認しますから、より詳しく現象を観ることができるようになります。 手・足・お腹などは純粋な物体です

 
 
 
「私」という気持ちを措いて、客観的に身体を観察する

「私」という気持ちを措いて、客観的に身体を観察する 集中力が上がって自然に実況中継が流れるところまでくると、修行者が確認する現象も変わっていきます。本当は「現象が変わる」という言葉は、正しくはありません。今まで気づくことができなかった現象にまで気づけるように成長した、ということです。どのように現象が変わるのか、次で説明していきます。 初心者の修行には、「私」という気持ちがこびりついています。手を上

 
 
 
自然に集中することができるようになる

自然に集中することができるようになるここで知りたいのは、どんな智慧が現れるのか、ということです。これからそれを、修行者たちが体験するさまざまな現象の流れに基づいて説明します。 初心者の修行は苦労しながら混乱したままで続きます。足を上げる、運ぶ、下ろす、などを実況すると、何のためにこれをやっているのか、という疑問も生じます。もっと面白いものがないのかと、心が他の対象に走り回ったりもします。しかし負け

 
 
 

コメント


bottom of page