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六番目の行道智見清浄:⑤ 厭離智nibbidā ñāṇa

  • sapporobukkyoujuku
  • 5月7日
  • 読了時間: 1分

六番目の行道智見清浄:⑤ 厭離智nibbidā ñāṇa

 一切の現象は怖畏のみをつかさどるのが本性であるならば、現象に対する未練を捨ててしまうのが理性的です。おいしそうに見える食べ物がある。食べたいという気持ちもある。その食べ物を徹底的に調べてみたところ、少量服用しただけでも死に至る猛毒で汚染されていると発見する。その発見と同時に、その食べ物に対して今まで持っていた未練は跡形もなく消えるのです。

 現象をさらに観察し続ける修行者が、一切の現象に対する未練を捨ててしまうのです。この状況を厭離智と言います。

【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p146】

 
 
 

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