top of page
検索

116 適正は業が決める

  • sapporobukkyoujuku
  • 1月31日
  • 読了時間: 1分

 仏教の立場から言うと、その子がどんな仕事に就くのかは生まれたときにもう決まっています。業のプログラムによって決まっているのです。決まってはいますが、頑張って別の仕事をすることもできます。しかし、その場合は水が流れるように順調にはいかず、けっこう苦労しなくてはいけません。たとえば音楽の世界では、三~四歳でも才能の有無が見えますね。その年頃でも、才能がある子にとって、一日七~八時間ぐらい練習することは何でもないことです。楽しいのですね。天才的な子供たちへのインタビューを見聞きすると、「八時間ぐらい練習しますよ」などと平気で答えます。「そんなに練習して疲れない?」と聞かれても、「いえ、ぜんぜん疲れませんよ」と答えるのです。音楽家のケースはわかりやすいですが、サラリーマン家庭に生まれた子でも、みんな業によって、将来就くであろう仕事の適性は決まっています。ですから親が「あなたはこの職業がいいよ」などと指図する必要はありません。ましてや「何がなんでも医者になれ」などと言うのは、論外です。『一瞬で心を磨くブッダの教え』第3章 社会で成功するために《仕事》アルボムッレ・スマナサーラ サンガ出版【ブッダの智慧に学んで子育てのプロになる親は子を育て、子は親を育てる」(2017年) p146】

 
 
 

最新記事

すべて表示
気持ちいい

我々は、「楽しい」とか「気持ちいい」とか言いますが、この「気持ちいい」ということ自体も痛みなのです。例えばマッサージしてもらうと気持ちいいと感じるでしょう。もともと痛みがあったならば、マッサージを受けて、「ああ気持ちいい」と言うのです。でも本当は、マッサージ自体が痛みなので...

 
 
 
「痛み」の正体/「痛み」が正体

基本的に、細胞というのは痛みで生きているのです。皆、痛みは消えてほしい、消えてほしいと思うのですけど「それならば死んでください」としか言えません。痛みは消えないのです。なぜならば細胞というのは痛みで生きているので、他の感覚はないからです。楽しい感覚、快楽の感覚は細胞にはない...

 
 
 
心の明るさは消えません

次のatthaṅgamāyaは「なくす、消える」という意味なのです。だからと言って、「覚った人をぶん殴っても痛くない」ということではありません。身体の痛みはありますが、ただ身体の痛みだけで、精神的には痛みは全くない。愁いと悲泣の場合は乗り越えるのです。外のことですから、それ...

 
 
 

Comments


bottom of page