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19 怒る条件がそろっていても怒らない

  • sapporobukkyoujuku
  • 2024年10月26日
  • 読了時間: 1分

 みんなが自分のことを褒めているときに怒らないのは、当たり前ですね。そういうときに「私はあまり怒りません」などと偉そうなことを言うのは感心しません。条件がそろえば、すぐに怒ってしまうかもしれないのですからね。怒る条件がそろっていないときに怒らないのは、別に褒められるほどのことではありません。本当に「怒りがない」ということは、怒る条件がそろっていても怒らないことなのです。みんなにけなされているときでも、ニコニコできることなのです。そのような心はどうすれば持てるのでしょうか? それはたとえばこういうことです。「私は地球のような心をつくります。人から、鋤みたいなものでちょっと穴を掘られたからといって何も動きません。地球のような心を持ちます」と自分に言い聞かせてみましょう。次の譬えは、「人からどんなことを言われても、私は空(そら)のような心でいます」と決めている人の心には、誰も絵を描くことはできないということです。その絵というのはつまり、怒りのことなのです。『一瞬で心を磨くブッダの教え』第1章 私たちの悩みを解決する《怒り》アルボムッレ・スマナサーラ サンガ出版【怒らないこと 役立つ初期仏教法話1 (サンガ新書 003, 2006年) P132】

 
 
 

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