top of page
検索

ブッダのことば

  • sapporobukkyoujuku
  • 2025年4月20日
  • 読了時間: 1分

Idha, bhikkhave, bhikkhu kāye kāyānupassī viharati ātāpī sampajāno satimā vineyya loke abhijjhādomanassaṃ,比丘たちよ、ここに比丘は、身において身を観つづけ、熱心に、「正知をそなえ、念をそなえ、世界における食欲と憂いを除いて住みます。 四種類の気づきのなかで第一は、身体に(kāye) 気づくことです。次に anupassī という単語が出てきます。Passatiとは「観る、観察する」という意味です。 anuは「沿う」という意味なので、身体に沿って観察する、という意味になります。身体というのは、常に動くものです。物のように停止しているのではありません。「こんなのはできるのか」という疑問が生じます。「できない」ではなく、誰もやっていないだけです。主観的に「私の身体」ではなく、客観的に「この身体の動き」を観察し始めるのです。Viahratiとは「生きる、生活する、住む」などの意味です。ですから客観的に「この身体の動き」を観察することを生活習慣にしなければいけないのです。これは「修行する」という意味になります。日常の「身体に気をつける」こととは随分違います。Ātāpīとは「修行する、精進する、苦労する、努力する、頑張る」という意味です。身体を観察することにおいては、修行しなくてはいけない、苦労しなくてはいけない、努力しなくてはいけない、頑張らなくてはいけないのです。【アルボムッレ・スマナサーラ、大念処経、株式会社サンンガ2016、p.43】

 
 
 

最新記事

すべて表示
いろいろな方法がすべて間違いであるとが実証済みとなる

いろいろな方法がすべて間違いであるとが実証済みとなる  解脱に達することができたのは、釈尊の説かれた観察方法を実践したからです。したがって、苦を乗り越えるためには観察実践が正しい方法であるということになります。心を清らかにするために、魂を浄化するために、真我を体験するために、などなどの目的を設定して、その目的に達するために世の中でいろいろな方法が説かれています。それらはすべて間違いであると、修行者

 
 
 
自我は存在しないという発見の次に涅槃を経験したのだと分かる

自我は存在しないという発見の次に涅槃を経験したのだと分かる  それから、今現在の心を観察します。何を発見して心が涅槃に入ってしまったのか、観察します。すると、自我は存在しない、成り立たない、因縁によって一時的に起こる現象に対しての勘違いに過ぎない、という発見の次に、涅槃を経験したのだと分かるのです。要するに、「有身見」が消えたのです。修行者は、仏道が正しい道であると経験しています。ですから「疑」も

 
 
 
涅槃とはこの瞬間前に起きた経験であると観察する

涅槃とはこの瞬間前に起きた経験であると観察する  テキストでは、magga 道、phala 果、nibbāna 涅槃、根絶した煩悩、残りの煩悩を観察するのだと説明しています。この順番で観察する必要がある、というわけではありません。修行者は自分が気になる順番で観察すると思います。悟りの経験は並外れた大胆な経験です。そのときは、心さえも存在しなかったのです。修行者は、認識の流れが戻ったら、まずそれを観

 
 
 

コメント


bottom of page