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道には目的がなければいけない

  • sapporobukkyoujuku
  • 4月18日
  • 読了時間: 1分

 そこで次に、サティ (sati) の実践によって「nibbānassa sacchikiriyā 涅槃を体得・体験する」という、達すべき目的を示しているのです。現代人は「瞑想すれば精神的に落ち着きます。集中力が上がります。ストレスがなくなります。それで仕事がはかどります」という気持ちで瞑想に興味をいだきます。心のやすらぎを目指す狙いは単刀直入に言えば、「金が儲かります」ということです。自分の心の欲に充分燃料を与えているのです。燃料があるならば、欲はごうごうと燃えるのです。それで精神的に混乱するのです。ブッダの実践には、涅槃を体験するために実践するのです。涅槃とは、心の煩悩がなくなったところで、心が経験する究極な安穏なのです。もとに戻ることはありません。精神的に落ち着いて、心が感情に振り回されないならば、商売も勉強も人間関係も良くなるのは当たり前の話ですが、それを目指すと、とんでもない悪循環に陥って元の木阿弥になることを憶えておきましょう。ですから仏道を歩む人々は、解脱・涅槃を目指すべきなのです。【アルボムッレ・スマナサーラ、大念処経、株式会社サンンガ2016、p.41】

 
 
 

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