top of page
検索

26 ケチも煩悩である

  • sapporobukkyoujuku
  • 2024年11月2日
  • 読了時間: 1分

 やたらと使いすぎたり「欲しい、欲しい」と思うのが悪いということはわかりやすいと思いますが、「あるのに使わない」というのもとんでもないことです。必要なものがそろっているのにそれを使わないことを、「ケチ」といいます。お金の余裕があるのなら、それなりの生き方をしなくてはいけません。ケチは駄目です。実は、欲が狂ってしまうとケチになるのです。ですから度を越して使わないケチも、欲と同じように心を汚し、不幸へ導く煩悩です。ある程度、「中道」的に楽に生活した上で、残ったお金は人類のために使う、そのような使い方が望ましいのです。これも資源を分かち合うことです。仏教では、大金持ちになることに対しては何も言いません。ただ、「余分に貯まった 財産は、持てない方々のためにできるだけ使ってください」と言います。それなら、「このお金持ちの人がいてよかった」とみんな思うでしょう? お金持ちの人が工場を作って仕事を与えてくれるとか、学校を作ってくれるとか、そういうことでいくらでも 富による幸福を周りの人々に広げることは可能なのです。『一瞬で心を磨くブッダの教え』第1章 私たちの悩みを解決する《欲》アルボムッレ・スマナサーラ サンガ出版【欲ばらないこと 役立つ初期仏教法話13 (サンガ新書018,2011年) P155】

 
 
 

最新記事

すべて表示
お釈迦様が発見された因果法則

お釈迦様が発見された因果法則では、「Aがあるとき、B が生まれる」ということでA とB の間で必然的な関係が生まれてくるのです。因果法則を語る場合、お釈迦様はtathatā(かくの如き状態、真如、涅槃)、avitathatā(虚妄でない状態、真実なる状態、不異如性、真性、不虚妄性)、anaññathā(不異如に、不異に、真実に)、idapaccayatā(これを縁とすること、縁起の道理、此因性、相

 
 
 
「因果法則」は存在そのものの研究成果

「因果法則」は存在そのものの研究成果  お釈迦様の立場からは、単なる純粋論理pure logic というのは意味がないのです。いくらでも回転していくのですから。純粋論理ではなくて、実践性practicability という、実際の人間の生き方にどれぐらい当てはまるかということ、人間の生き方そのものが一番大事であって、そこを抜きに論理だけを発展させません。お釈迦様は人間が生きていること、存在そのもの

 
 
 
広げていけれど

とにかく論理学を広げていくけれど、なかなか実例は出てこなくなってしまいます。数学の場合も同じことで、いくらでも数学は語れますし、つくれますが、実際の世界では例はなくなってしまうのです。そういうことで、古代インド、お釈迦様の時代では「論理だけ」というのはあまり人気がなかったのです。「お釈迦様は論理的だ」と言われたらすごく気に入らない。そういう評判を聞くと、出かけて行って反論する。黙ってはいないのです

 
 
 

コメント


bottom of page