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263 空・無我という真理

  • sapporobukkyoujuku
  • 2024年8月9日
  • 読了時間: 1分

 すべてのものは現れては消えます。世界は「現れては消える」ことの連続です。実体的なものは何もないということを「無常」といいます。「空」「無我」も同じ意味です。世界は蜃気楼のようなものだということです。「空」とは「空っぽ」ではなく、蜃気楼です。蜃気楼は、光の屈折により作られている現象ですが、私たちの肉眼には、本当にそこに山や木や湖があるように見えます。しかも、「なんてきれいなんだ」と思うなど、私たちの感情まで、実体のない蜃気楼によって変化します。ところが実際に行ってみると何もありません。しかしそれは、「本当に何もない(虚空)」という意味ではありません。原因によって、一時的に現れている現象なのです。「私」にしても、体が虚空なわけではないのです。しかし、だからといって実体的な、永遠不滅な「これ」というものは何もありません。それで「無我」ということになるのです。『一分で読むブッダの教え』第5章 仏教が教える「生きること」の本質《無常》アルボムッレ・スマナサーラ サンガ出版【ブッダの質問箱―仏教まるごとQA(サンガ新書046、2011年) p25】

 
 
 

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