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六番目の行道智見清浄:⑧ 行捨智saṅkhārupekkhā ñāṇa

  • sapporobukkyoujuku
  • 5月11日
  • 読了時間: 1分

六番目の行道智見清浄:⑧ 行捨智saṅkhārupekkhā ñāṇa

 火事になった寝室の話に戻りましょう。脱出したいという目的で寝室を観察しました。どこも危険で、寝室の中にいては助かるはずがありません。寝室のことは諦めて放っておかなければいけません。寝室はどうなってもいっこうに構わないという気持ちにならなければいけないのです。

 一切の現象から脱出すべきであるという智慧に基づいて観察を続けた修行者は、一切のnāma とrūpa のことはどうなってもいっこうに構わないという気持ちになります。

 今まで説明した智慧の段階では、心は次から次へと強いインパクトを受けてきました。今度は徹底して冷静な状況をつくるのです。そのためにも、またnāma とrūpa を観察しなければいけません。

 いかなるnāma であれrūpa であれ、すべては無常です。すべては苦です。すべては無我です。すべては生滅の流れで成り立っています。放っておきましょう。すべては危険であると知った上で現れる冷静さは、尋常なものではありません。俗世間の人々に理解できそうなものでもないのです。超越した精神状態です。それに達したら、saṅkhārupekkhā ñāṇa 行捨智と言います。 

【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p148】

 
 
 

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