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六番目の行道智見清浄:⑨ 諦随順智saccānulomika ñāṇa

  • sapporobukkyoujuku
  • 5月12日
  • 読了時間: 1分

六番目の行道智見清浄:⑨ 諦随順智saccānulomika ñāṇa

  次に生まれるのは、諦随順智saccānulomika ñāṇa です。Sacca とはお釈迦様が語られた四聖諦のことです。仏道を学ぶ人々は、最初から四聖諦を学びます。徹底的に学んだとしても、弟子の理解は知識範囲に留まります。知識能力で理解できるところまで理解するのです。しかし知識とは、俗世間的な現象です。

 知識によって執着が消えるという保証はありません。普通の知識なら、それは強烈に執着をつくります。仏教を学ぶとは、執着は苦の原因になるのだという真理を学ぶことです。だからといって、仏教知識を得たところで執着はなくなりません。かえって仏教の知識に執着を抱いてしまうのです。

 執着をなくすために、知識ではなく実践が必要です。ここで説明する仏道の実践者は、実践の終局のステージに入っています。終局のステージで現れる智慧を諦随順智と言います。ここまできて、やっと四聖諦を分かったことになります。今までの四聖諦に対する理解はすべて知識です。今度は智慧が現れます。

【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p149】

 
 
 

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