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265 ありのままの世界とは

  • sapporobukkyoujuku
  • 2024年8月10日
  • 読了時間: 1分

 悟りに達する道というのは、かなり険しくて、厳しいのです。「ありのままにみる」ということが一番難しい。これができるようになってくると、世界の見え方が変わってしまいます。いま見ているような、こんなに面白い、美しい世界は見えてこないのです。極限につまらない世界が見えてくるのです。つまり、「ありのままに見る」ならば、一切の現象は「無価値」であると、わかるのです。『一分で読むブッダの教え』第5章 仏教が教える「生きること」の本質《無常》アルボムッレ・スマナサーラ サンガ出版【幻想を超えて 夢枕氏との共著 (2010年) p186】

 
 
 

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nāma とrūpa の流れに過ぎない 解説すると、このようになります。「私」というのは、心と物質の流れです。二種類の流れに、仮に、世俗的に「私」と言っているだけです。「私」という何かがあるわけではないのです。『念処経』で説かれているように、この経験を活かして自分を観察する・他を観察する・両方を観察する、という順番でおこなってみるならば、以下のような結論に達します。「生命とは、生きるとは、命とは、

 
 
 
nāma とrūpa を区別して発見する

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「私」という気持ちを措いて、客観的に身体を観察する

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