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270 確固たる実体があるという誤解

  • sapporobukkyoujuku
  • 2024年8月15日
  • 読了時間: 1分

 一切の現象には、何か種みたいな、芯みたいなものは、どこにもありません。ぜんぶつかみどころのない、何かの幻、幻覚みたいなものです。しかし、人は「何かあるんだ」と思っています。「実体があるんだ」と信じています。自分に、ものごとに、絶対に変わらない、霊魂・魂・自我・実体があると勘違いしています。たいていの人は、自分に霊魂があると思っていたりするでしょう? 実体がある、魂があると思うでしょう? それは、かなりの捏造です。顛倒です。あべこべです。しかし、ぜんぶすっかりあべこべですから、自分にとってはあべこべに感じないことも、顛倒のポイントです。お釈迦さまが言うこと、真理のほうが変ではないかと思ってしまうのです。なぜなら、いつも「自分」という気持ちがあるでしょう? 「あっ、ずっとありますよ」と思うでしょう? すると「自分という絶対に変わらないなにかはありませんよ、なんて、そんなわけがないでしょう。どうしてそんなに、自我はない、自我はないと興奮して力説するのですか」と思うわけです。『一分で読むブッダの教え』第5章 仏教が教える「生きること」の本質《無常》アルボムッレ・スマナサーラ サンガ出版【あべこべ感覚 役立つ初期仏教法話7」(サンガ新 022, 2008年) p99】

 
 
 

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お釈迦様が発見された因果法則

お釈迦様が発見された因果法則では、「Aがあるとき、B が生まれる」ということでA とB の間で必然的な関係が生まれてくるのです。因果法則を語る場合、お釈迦様はtathatā(かくの如き状態、真如、涅槃)、avitathatā(虚妄でない状態、真実なる状態、不異如性、真性、不虚妄性)、anaññathā(不異如に、不異に、真実に)、idapaccayatā(これを縁とすること、縁起の道理、此因性、相

 
 
 
「因果法則」は存在そのものの研究成果

「因果法則」は存在そのものの研究成果  お釈迦様の立場からは、単なる純粋論理pure logic というのは意味がないのです。いくらでも回転していくのですから。純粋論理ではなくて、実践性practicability という、実際の人間の生き方にどれぐらい当てはまるかということ、人間の生き方そのものが一番大事であって、そこを抜きに論理だけを発展させません。お釈迦様は人間が生きていること、存在そのもの

 
 
 
広げていけれど

とにかく論理学を広げていくけれど、なかなか実例は出てこなくなってしまいます。数学の場合も同じことで、いくらでも数学は語れますし、つくれますが、実際の世界では例はなくなってしまうのです。そういうことで、古代インド、お釈迦様の時代では「論理だけ」というのはあまり人気がなかったのです。「お釈迦様は論理的だ」と言われたらすごく気に入らない。そういう評判を聞くと、出かけて行って反論する。黙ってはいないのです

 
 
 

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