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274 精神的に弱いと変化を拒む

  • sapporobukkyoujuku
  • 2024年8月19日
  • 読了時間: 1分

 精神的に弱くなると、変わることではなく、変わらないことを期待するようになります。精神的健康が衰えると、自分の知識を堅く守ろうとします。自分の知識に対する批判、調整、改良などを断る。頭が悪くなると、新しいことを拒んで、自分が知っていることにしがみつくのです。年寄りがよく「昔は良かった」と言うでしょう。彼らが昔を懐かしむのは、昔のことが変わらないからです。別に昔が実際に楽しかったからではないのです。そのときはそのときで苦労があったはずです。つまり彼らは、変化しないことを望んでいるのです。裏を返せば、「いまの変化は嫌だ」と言っているのです。つまり我々は、精神的にも肉体的にも健康であるならば、無常を認めるのです。「あ、そう。変わるでしょう」と対応できる柔軟性があるのです。『一分で読むブッダの教え』第5章 仏教が教える「生きること」の本質《無常》アルボムッレ・スマナサーラ サンガ出版【無常の見方 サンガ新社2023年) p120】

 
 
 

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