top of page
検索

280 事実をありのままにみる

  • sapporobukkyoujuku
  • 2024年8月25日
  • 読了時間: 1分

 事実を否定すると、苦しみが生まれます。私にはお金があると思っている人がいるとします。これからもずっと金持ちでいられると思っていたら、どうなるでしょうか。一瞬先はわからないのです。株で大損して、持っていたお金がすべてなくなってしまうこともあり得ます。その事実を否定する人は、そうなったとき心臓発作を起こして死んでしまうことでしょう。事実を認める人は「ああ、そうか」と何も動じることはありません。 私たちに悩み、苦しみ、精神的な問題が生まれるのは、私たちが自然の法則に逆らっているからです。みんな死ぬのです。消えるものは消えるのです。若さも、毎日、毎瞬、毎瞬、消えていきます。すべては電気の流れ、光の流れと同じです。光はつかまえられませんね。ありのままにものごとを見ることを「智慧」といい、智慧が現れると同時に、心の悪循環、渇愛状態が壊れます。その状態に到達した人は、空気のように、悩み苦しみに翻弄(ほんろう)されることなく、あるいは舞い上がることなく生きていられます。『一分で読むブッダの教え』第5章 仏教が教える「生きること」の本質《無常》アルボムッレ・スマナサーラ サンガ出版【自分を変える気づきの瞑想法 (2004年) ([増補改訂版] 2011年) p43】

 
 
 

最新記事

すべて表示
nāma とrūpa の流れに過ぎない

nāma とrūpa の流れに過ぎない 解説すると、このようになります。「私」というのは、心と物質の流れです。二種類の流れに、仮に、世俗的に「私」と言っているだけです。「私」という何かがあるわけではないのです。『念処経』で説かれているように、この経験を活かして自分を観察する・他を観察する・両方を観察する、という順番でおこなってみるならば、以下のような結論に達します。「生命とは、生きるとは、命とは、

 
 
 
nāma とrūpa を区別して発見する

nāma とrūpa を区別して発見する それから客観的に確認作業を実行してみるようになります。そうなると、手を上げます、下げます、と実況するのであって、それは「私の手」という気持ちから離れています。ただ「手」という客観的な物体として観るのです。座る瞑想もこの調子でおこないます。集中力があり、客観的に確認しますから、より詳しく現象を観ることができるようになります。 手・足・お腹などは純粋な物体です

 
 
 
「私」という気持ちを措いて、客観的に身体を観察する

「私」という気持ちを措いて、客観的に身体を観察する 集中力が上がって自然に実況中継が流れるところまでくると、修行者が確認する現象も変わっていきます。本当は「現象が変わる」という言葉は、正しくはありません。今まで気づくことができなかった現象にまで気づけるように成長した、ということです。どのように現象が変わるのか、次で説明していきます。 初心者の修行には、「私」という気持ちがこびりついています。手を上

 
 
 

コメント


bottom of page