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288 「私」「魂」という実体はない

  • sapporobukkyoujuku
  • 2024年9月2日
  • 読了時間: 1分

 言葉を用いて「私」「私がいる」とは言えますが、それはあくまで都合がいいからです。現実には「これが私です」といえる固定された実体はありません。「私」「魂」といった単語があるからといって、それらの単語に実体があるわけではありません。呼吸によって自分が変わる、見ることによって自分が変わる、いる場所によって自分が変わる、時間によって自分が変わるのです。私が歳をとっていくスピードは、一秒も止まりません。ご飯を食べたら、もう変わっているのです。『一分で読むブッダの教え』第5章 仏教が教える「生きること」の本質《自我》アルボムッレ・スマナサーラ サンガ出版【無常の見方 サンガ新社2023年) p143】

 
 
 

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