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290 貪瞋痴(とんじんち)、自己愛、生存欲によって表れるエゴ

  • sapporobukkyoujuku
  • 2024年9月4日
  • 読了時間: 1分

 欲の感情・怒りの感情・無智の感情は最終的に似ているものです。その感情で、私たちは「自分がある」「魂がある」「エゴがある」と錯覚するのです。それからまた、「自己愛」、「生存欲(死にたくないという気持ち)」も、人を支配しています。自己愛や生存欲にかかわる感情が、すべての顔・すべての性格に入っているのです。我々はどんな顔を見せるにせよ、常に自己愛というものがあります。自己愛があるから怒 り、自己愛があるから笑うのです。すべて自分のため、それが自己愛です。これを覚えてお いてください。それから、生存欲は「死にたくない」という気持ちですが、それがいろいろな顔で“大根役者”を演じています。これも、エゴ・自我の実体なのです。エゴと自我というのは、この貪(欲)・瞋(怒り)・痴(無智)、自己愛、生存欲によって表れる幻覚です。これは一切の苦しみのもとになる幻覚なのです。『一分で読むブッダの教え』第5章 仏教が教える「生きること」の本質《自我》アルボムッレ・スマナサーラ サンガ出版【ありのままの自分 アイデンティティの常識を超える (お釈迦さまが教えたこと 4, 2007年) p99】

 
 
 

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お釈迦様が発見された因果法則では、「Aがあるとき、B が生まれる」ということでA とB の間で必然的な関係が生まれてくるのです。因果法則を語る場合、お釈迦様はtathatā(かくの如き状態、真如、涅槃)、avitathatā(虚妄でない状態、真実なる状態、不異如性、真性、不虚妄性)、anaññathā(不異如に、不異に、真実に)、idapaccayatā(これを縁とすること、縁起の道理、此因性、相

 
 
 
「因果法則」は存在そのものの研究成果

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