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294 私が正しいと世界が敵になる

  • sapporobukkyoujuku
  • 2024年9月8日
  • 読了時間: 1分

 「我こそは正しい」ならば「世界が間違っている」ということになります。 それで、小さな「我」が世界全体を敵に回すことになって、限りのない苦しみの世界が現れてくるのです。そこは認識のバグが入っています。手術して治さなくてはいけないのです。手術とは修行のことです。だから、仏教の修行というのは苦行にはまったくなりません。ただ、「我は思う」という認識プロセスを管理するのです。『一分で読むブッダの教え』第5章 仏教が教える「生きること」の本質《自我》アルボムッレ・スマナサーラ サンガ出版【幻想を超えて 夢枕氏との共著 (2010年) p172】

 
 
 

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