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297 「私」という幻覚

  • sapporobukkyoujuku
  • 2024年9月11日
  • 読了時間: 1分

 何かを感じるたびに「私」「私」という幻覚が出てきて、その幻覚にすごく執着します。「私」こそ何よりも大事だ、と思います。「尊い魂がある」「かけがえのない自分」などと聞くと、嬉しくなります。これらは、我々の弱みから来ています。私たちは、生きている中で、ものごとが自分の意のままにならないことを、いやと言うほど知っています。失敗したり、不安になったり、病気になったりする弱さを否定したいのです。自分にすばらしいものがあると思いたいのです。『一分で読むブッダの教え』第5章 仏教が教える「生きること」の本質《自我》アルボムッレ・スマナサーラ サンガ出版【心の中はどうなってるの?一役立つ初期仏教法話5(サンガ新書016. 2007年) p39】

 
 
 

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nāma とrūpa の流れに過ぎない 解説すると、このようになります。「私」というのは、心と物質の流れです。二種類の流れに、仮に、世俗的に「私」と言っているだけです。「私」という何かがあるわけではないのです。『念処経』で説かれているように、この経験を活かして自分を観察する・他を観察する・両方を観察する、という順番でおこなってみるならば、以下のような結論に達します。「生命とは、生きるとは、命とは、

 
 
 
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