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298 自分とは「蜃気楼」

  • sapporobukkyoujuku
  • 2024年9月12日
  • 読了時間: 1分

 「自分がいる」という実感から問題が起きた。お釈迦さまはその立場なんですね。だからわれわれ仏教では「自分がいる」ということは何なのか、そのシステムを分解してみるのです。分解してみると、それはひとつの概念であって、別に実体はないとわかるでしょう、と説明します。だから言葉のうえで、普通の会話上は、「自分」という言葉を使ってもかまいませんが、それには決して哲学的な、あるいは心理的な、あるいは実体的な中身はない。蜃気楼と同じなんです。いろんな原因で光が屈折して蜃気楼のような幻覚が生まれるだけ。全部自我意識から出てきた問題なんですね。そして自我意識さえも幻覚。この幻覚からいくらでも幻覚が立てられますからね。現代社会を見ても、あらゆる哲学があり哲学やら宗教やら、あらゆるわれわれの大量の知識が、ぜんぶ「我はいる」というところから始まっている。だから全部幻覚から生まれた、恐ろしい幻覚以外の何ものでもないんだ、ということなんです。『一分で読むブッダの教え』第5章 仏教が教える「生きること」の本質《自我》アルボムッレ・スマナサーラ サンガ出版【生きる勉強―軽くして生きるため、上座仏教長老と精神科医が語り合う」香山リカ氏との共著 (サンガ新書044,2010年) p103】

 
 
 

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お釈迦様が発見された因果法則

お釈迦様が発見された因果法則では、「Aがあるとき、B が生まれる」ということでA とB の間で必然的な関係が生まれてくるのです。因果法則を語る場合、お釈迦様はtathatā(かくの如き状態、真如、涅槃)、avitathatā(虚妄でない状態、真実なる状態、不異如性、真性、不虚妄性)、anaññathā(不異如に、不異に、真実に)、idapaccayatā(これを縁とすること、縁起の道理、此因性、相

 
 
 
「因果法則」は存在そのものの研究成果

「因果法則」は存在そのものの研究成果  お釈迦様の立場からは、単なる純粋論理pure logic というのは意味がないのです。いくらでも回転していくのですから。純粋論理ではなくて、実践性practicability という、実際の人間の生き方にどれぐらい当てはまるかということ、人間の生き方そのものが一番大事であって、そこを抜きに論理だけを発展させません。お釈迦様は人間が生きていること、存在そのもの

 
 
 
広げていけれど

とにかく論理学を広げていくけれど、なかなか実例は出てこなくなってしまいます。数学の場合も同じことで、いくらでも数学は語れますし、つくれますが、実際の世界では例はなくなってしまうのです。そういうことで、古代インド、お釈迦様の時代では「論理だけ」というのはあまり人気がなかったのです。「お釈迦様は論理的だ」と言われたらすごく気に入らない。そういう評判を聞くと、出かけて行って反論する。黙ってはいないのです

 
 
 

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