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299 ありのままを知って悟る

  • sapporobukkyoujuku
  • 2024年9月13日
  • 読了時間: 1分

 耳に絶えずなんらかの音が触れていますね。この本を読んでいる今も、何かしら聞こえているでしょう? その音だけを聞いてみてください。「あ、これは鳥のさえずりだ」「カラスの声だ」「子供が遊ぶ音だ」などという妄想はしないで、音だけ聞きます。そうすると、瞬間、瞬間、感情が変わること、聴覚が変わること、音も瞬間、瞬間、変わることを発見します。「私」が、「自我」が、ないことを発見します。たちまち悟りに達します。それで苦しみが消えます。 頭の中で妄想しないで、捏造(ねつぞう)しないで、ただ、「いる」だけです。ただ、いるだけで悟ることができます。そのとき初めて、「自分という実体は成り立たない」「すべては瞬間に変わっていく現象のみだ」「欲張ったり怒ったりするに値しないものだ」とわかります。『一分で読むブッダの教え』第5章 仏教が教える「生きること」の本質《自我》アルボムッレ・スマナサーラ サンガ出版【結局は自分のことを何もしらない 役立つ初期仏教法話6」 (サンガ新書2008年) p130】

 
 
 

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