top of page
検索

307 自我を破るための努力をしよう

  • sapporobukkyoujuku
  • 2024年9月21日
  • 読了時間: 1分

 エゴを薄くするため、なくすために、他人のことを心配するなら、それは“大きなお世話”にはなりません。たとえばボランティア活動をする場合でも、苦しんでいる人々を助けてあげて、それによって自分もエゴをなくすのだとはっきりしているならば、大きなお世話のボランティアにはなりません。自分のエゴを破るための行動になります。これはボランティアの正しいやり方なのです。「あなた方を助けてあげているではないか」「これくらいやってあげているではないか」と、ボランティアの方々はよく自慢します。TVコマーシャルまでします。こういうボランティアは、本当に相手のためにしてあげているのか、あやしいものです。本当のところは、自分が世の中に依存して助けてもらっているということにすぎません。それはやめましょう。我々はエゴを破るためにボランティア活動もするし、道徳も守るし、戒律も守るし、瞑想をして心も統一する。そのように励む人が、自立への道を歩む人となるのです。『一分で読むブッダの教え』第5章 仏教が教える「生きること」の本質《自我》アルボムッレ・スマナサーラ サンガ出版【自立への道 ブッダはひとりだちを応援します (お釈迦さまが教えたこ 6,2008年) p201】

 
 
 

最新記事

すべて表示
nāma とrūpa の流れに過ぎない

nāma とrūpa の流れに過ぎない 解説すると、このようになります。「私」というのは、心と物質の流れです。二種類の流れに、仮に、世俗的に「私」と言っているだけです。「私」という何かがあるわけではないのです。『念処経』で説かれているように、この経験を活かして自分を観察する・他を観察する・両方を観察する、という順番でおこなってみるならば、以下のような結論に達します。「生命とは、生きるとは、命とは、

 
 
 
nāma とrūpa を区別して発見する

nāma とrūpa を区別して発見する それから客観的に確認作業を実行してみるようになります。そうなると、手を上げます、下げます、と実況するのであって、それは「私の手」という気持ちから離れています。ただ「手」という客観的な物体として観るのです。座る瞑想もこの調子でおこないます。集中力があり、客観的に確認しますから、より詳しく現象を観ることができるようになります。 手・足・お腹などは純粋な物体です

 
 
 
「私」という気持ちを措いて、客観的に身体を観察する

「私」という気持ちを措いて、客観的に身体を観察する 集中力が上がって自然に実況中継が流れるところまでくると、修行者が確認する現象も変わっていきます。本当は「現象が変わる」という言葉は、正しくはありません。今まで気づくことができなかった現象にまで気づけるように成長した、ということです。どのように現象が変わるのか、次で説明していきます。 初心者の修行には、「私」という気持ちがこびりついています。手を上

 
 
 

コメント


bottom of page