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312 皆が等しくただの生命

  • sapporobukkyoujuku
  • 2024年9月26日
  • 読了時間: 1分

 人は皆、「特別な存在」ではありません。特別な存在だと思いたくてたまらないのですが、違います。私も皆も、等しくただの生命です。どんな生命も同じ気持ちです。どんな生命でも自分が好きなのです。「私を殺すのは最悪。大嫌い」なのです。「私は死にたくはない」なら、「皆も死にたくはない」のです。「私が生き続けたい」なら、「皆も同じく生き続けたい」のです。だったら、他の生命を殺せるわけがないでしょう? 『一分で読むブッダの教え』第5章 仏教が教える「生きること」の本質《自我》アルボムッレ・スマナサーラ サンガ出版【平和の生滅 生存の矛盾を超えて お釈迦さまが教えたこと2, 2006年 p105】

 
 
 

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