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315 慈しみで互いの縄張りを尊重する

  • sapporobukkyoujuku
  • 2024年9月29日
  • 読了時間: 1分

 動物にも縄張りがあります。人間にも自分の縄張り、自分の家というところがあります。自分の家は、人間が住みやすく、すごくきれいに整理整頓しておきます。そのうえで、ゴキブリに対しても慈しみを持って、「どこかで元気で、まぁ長生きしてちょうだいよ」と思えばよいのです。ゴキブリを慈しむというのは、特別にかわいがって保護しなさいというわけではありません。ただ、「こちらは人間の縄張りだから気をつけてよ、入ったら危ないよ」という優しい気分でいると、ゴキブリは出てきません。生命とは不思議なものです。相手に対して慈しみをひろげると、向こうも、こちらのことを心配します。『一分で読むブッダの教え』第5章 仏教が教える「生きること」の本質《自我》アルボムッレ・スマナサーラ サンガ出版【結局は自分のことを何もしらない 役立つ初期仏教法話6」 (サンガ新書2008年) p151】


 
 
 

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