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317 調和のとれた生き方をしよう

  • sapporobukkyoujuku
  • 2024年10月1日
  • 読了時間: 1分

 金などの道具に支配されると、人は欲・怒り・憎しみ・嫉妬・悩み・悲しみという原動力に頼らなくてはいけなくなります。逆に、金などはみな、仲良く平和で幸福に生きるための道具に過ぎないのだと思うと、その人の生き方は「愛・慈しみ」に支配されるのです。欲・怒り・憎しみ・嫉妬・悩み・悲しみに居場所がなくなるのです。金・地位・名誉・権力は、生きるために必要な道具だと理解してその通りに生きる人が、生きる真の目的と、世俗的な物事を見事に調和させているのです。世間にどっぷりと入り込んで生きることは正しくない。世間が恐ろしい悪魔だと思って逃げることも正しくない。私が元気で頑張って生きることで、皆の役に立つならば、それこそ調和に達した生き方なのです。慈しみを、生きる原動力にしてみましょう。『一分で読むブッダの教え』第5章 仏教が教える「生きること」の本質《自我》アルボムッレ・スマナサーラ サンガ出版【いまここに生きる智慧―シスターが長老に聞きたかったこと 鈴木秀子 氏との共著 (2007年) p236】

 
 
 

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