top of page
検索

318 慈しみの関係性で安らかに生きる

  • sapporobukkyoujuku
  • 2024年10月2日
  • 読了時間: 1分

 「自然に感謝します」と言っても、自然は何もしてくれません。しかし、「皆様に感謝します」と正直に言うと、その「皆様」がいろいろ助けてくれます。けっして一人では生きられないのです。互いに心配し合って、互いの面倒を見て、互いに感謝して、生きる。そういう慈しみの生き方で心に強い力がつき、幸福に生きられるのです。ですから我々は、慈しみという絆で結ばれていなければいけないのです。誰でも死ぬことは避けられませんが、慈しみで結ばれた関係性の中でなら、安らぎを感じて生活することができるのです。『一分で読むブッダの教え』第5章 仏教が教える「生きること」の本質《自我》アルボムッレ・スマナサーラ サンガ出版【いつだって逆境 それでも 「くじけない」 心がまえ (2012年) p82】

 
 
 

最新記事

すべて表示
nāma とrūpa の流れに過ぎない

nāma とrūpa の流れに過ぎない 解説すると、このようになります。「私」というのは、心と物質の流れです。二種類の流れに、仮に、世俗的に「私」と言っているだけです。「私」という何かがあるわけではないのです。『念処経』で説かれているように、この経験を活かして自分を観察する・他を観察する・両方を観察する、という順番でおこなってみるならば、以下のような結論に達します。「生命とは、生きるとは、命とは、

 
 
 
nāma とrūpa を区別して発見する

nāma とrūpa を区別して発見する それから客観的に確認作業を実行してみるようになります。そうなると、手を上げます、下げます、と実況するのであって、それは「私の手」という気持ちから離れています。ただ「手」という客観的な物体として観るのです。座る瞑想もこの調子でおこないます。集中力があり、客観的に確認しますから、より詳しく現象を観ることができるようになります。 手・足・お腹などは純粋な物体です

 
 
 
「私」という気持ちを措いて、客観的に身体を観察する

「私」という気持ちを措いて、客観的に身体を観察する 集中力が上がって自然に実況中継が流れるところまでくると、修行者が確認する現象も変わっていきます。本当は「現象が変わる」という言葉は、正しくはありません。今まで気づくことができなかった現象にまで気づけるように成長した、ということです。どのように現象が変わるのか、次で説明していきます。 初心者の修行には、「私」という気持ちがこびりついています。手を上

 
 
 

コメント


bottom of page