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42 自分とは何か?

  • sapporobukkyoujuku
  • 2024年11月18日
  • 読了時間: 1分

 「私は何者か?」ということは、その環境によって一時的に成り立っているだけのことです。時空が変わったとたん、もう別人なのです。たとえば、ある集いに参加していれば、参加者です。ちょっとトイレに行ったら、その人は集いには参加していない。いまトイレという時空の人なのです。「あなただれ?」と聞かれたら、ほんとうは「私は何者かわかりません」というのが正しいのです。いまの自分というものは、環境次第であり、因果法則の結果なのです。病気になって病院に行けば「患者」でしょう。医者の前で「私は歴史学者だ」と言う人はいますか? 子供に対しては「お父さん」、孫に対しては「おじいさん」、学生時代の友人なら「仲間」、会社では「課長」、地域では「近所のおじさん」。出会う人によって自分の役割はくるくると変わります。シェークスピアは「人生は舞台劇場だ」と書いています。そういうふうに場面場面で自分が変わる。一貫性がない。それが自分です。そういう生き方が、たのしいのです。『一瞬で心を磨くブッダの教え』第1章 私たちの悩みを解決する《自我》アルボムッレ・スマナサーラ サンガ出版【スマナサーラ長老の仏教塾(2016年) p50】

 
 
 

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お釈迦様が発見された因果法則

お釈迦様が発見された因果法則では、「Aがあるとき、B が生まれる」ということでA とB の間で必然的な関係が生まれてくるのです。因果法則を語る場合、お釈迦様はtathatā(かくの如き状態、真如、涅槃)、avitathatā(虚妄でない状態、真実なる状態、不異如性、真性、不虚妄性)、anaññathā(不異如に、不異に、真実に)、idapaccayatā(これを縁とすること、縁起の道理、此因性、相

 
 
 
「因果法則」は存在そのものの研究成果

「因果法則」は存在そのものの研究成果  お釈迦様の立場からは、単なる純粋論理pure logic というのは意味がないのです。いくらでも回転していくのですから。純粋論理ではなくて、実践性practicability という、実際の人間の生き方にどれぐらい当てはまるかということ、人間の生き方そのものが一番大事であって、そこを抜きに論理だけを発展させません。お釈迦様は人間が生きていること、存在そのもの

 
 
 
広げていけれど

とにかく論理学を広げていくけれど、なかなか実例は出てこなくなってしまいます。数学の場合も同じことで、いくらでも数学は語れますし、つくれますが、実際の世界では例はなくなってしまうのです。そういうことで、古代インド、お釈迦様の時代では「論理だけ」というのはあまり人気がなかったのです。「お釈迦様は論理的だ」と言われたらすごく気に入らない。そういう評判を聞くと、出かけて行って反論する。黙ってはいないのです

 
 
 

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