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群盲象を撫でる

  • sapporobukkyoujuku
  • 2025年4月17日
  • 読了時間: 1分

生まれつき目が見えない人々の前に、象を連れてきて、「象とはどんな生き物かと説明してくれ」と、その人々に頼みます。身体を触った人にとって、象は山のような存在です。尾っぽを触った人には、ホウキのような存在です。足を撫でた人からすれば臼のような存在です。耳を撫でた人は脱穀に使う箕のような存在だと言います。・・・・・・互いの意見はあまりにも違うので、お互いに議論を始めるのです。この例え話は、ほんのわずかな経験だけに頼って結論に走ることの危険性を示しています。同時に、ものごとを全体的に見るために必要な観察能力が欠けていることも示しています。群盲には視覚能力が欠けていたのです。私たちには観察能力が欠けているのです。大念処経はこの問題を解決して、観察能力を育てる方法を教えているのです。象が見えた瞬間、群育が繰り広げた全ての議論が消えて平和になるように、私たちに観察能力が身につけば、全ての疑が消えて、心が平和になるのです。【アルボムッレ・スマナサーラ、大念処経、株式会社サンンガ2016、p.40】

 
 
 

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