top of page
検索

44 「自分探し」から争いが生まれる

  • sapporobukkyoujuku
  • 2024年11月20日
  • 読了時間: 1分

 皆、何かしら、「私は何者か?」と探し求めています。自分は何か偉い人物・尊い存在であると、そう思っているのです。いわゆるアイデンティティ(自己同一性、変わらない自分)を強化したくて、安定させたくて必死なのです。皆、愚かで無智なのです。無智の結果は当然、自業自得なので、人生の道のりは何一つうまくいかなくなっています。「自我」を追い求めているせいで、世界はハチャメチャで、苦しみから苦しみへ、悩みから悩みへと、恐ろしい状態です。自分のアイデンティティを掲げ、世界を相手に闘うのです。家族の中でも互いに闘って、社会とも闘う。ですから、それとはまったく正反対の道として、「私は何者にもあらず」と理解する必要があるのです。事実、私とは何者でもありません。最初はすごく実践しにくいでしょう。それで構いません。なぜ実践しにくいのかというと、それは自分が自分のことを偉いと思っているからなのです。実践すれば、そういう感情・事実を発見し、智慧が現れてきます。『一瞬で心を磨くブッダの教え』第1章 私たちの悩みを解決する《自我》アルボムッレ・スマナサーラ サンガ出版【慈悲の瞑想 (フルバージョン〕 人生を開花させる慈しみ p233】

 
 
 

最新記事

すべて表示
身体の動きに気づく

yadidaṃ cattāro satipaṭṭhānā.‘‘Katame cattāro? すなわち、それは四念処です。 四とは何か。Cattāro satipaṭṭhānā と説かれているので、気づきは四種類になります。気づきとは、みな毎日やっていることではないかと思わ...

 
 
 
道には目的がなければいけない

そこで次に、サティ (sati) の実践によって「nibbānassa sacchikiriyā 涅槃を体得・体験する」という、達すべき目的を示しているのです。現代人は「瞑想すれば精神的に落ち着きます。集中力が上がります。ストレスがなくなります。それで仕事がはかどります」と...

 
 
 
群盲象を撫でる

生まれつき目が見えない人々の前に、象を連れてきて、「象とはどんな生き物かと説明してくれ」と、その人々に頼みます。身体を触った人にとって、象は山のような存在です。尾っぽを触った人には、ホウキのような存在です。足を撫でた人からすれば臼のような存在です。耳を撫でた人は脱穀に使う箕...

 
 
 

Comments


bottom of page