top of page
検索

73 自力・他力の思考を捨てたところに道がある

  • sapporobukkyoujuku
  • 2024年12月19日
  • 読了時間: 1分

 自力・他力というのはものすごく差別的な思考で偏見ですよ。自力というのは自分だけでぜんぶやるという意味ですが、できるわけないでしょう? 無智で煩悩のどん底にいて右も左もわからない人が、どうやって自分で道を開くのでしょうか? 他力といっても、我々には他人をどうすることもできないでしょう?「私が、私が」という自力思考では何も得られません。「助けて頂戴」というのでは一ミリも進めません。どちらも邪見なので、救われません。自力・他力という思考を捨てたところに、道があるのです。自分を投げ捨てるというのは、自我を捨てるということですよ。自我を捨てる道というのは、修行の結果を表す言葉です。だからずっと修行して、修行してそれ以上どうにもならないところで、じゃあもう諦めた、と全部放棄しちゃうんですよ。そこで、ありありと道が見えてくる。自力・他力ではなくて、一言「道」といったほうが正しいんですよ。老子の言葉にあるように。道ですよ、結局は。『一瞬で心を磨くブッダの教え』第2章 仏教の教えを理解する《仏教》アルボムッレ・スマナサーラ サンガ出版【ブッダの歩き方 立松和平氏との共著 (2006年) p198】

 
 
 

最新記事

すべて表示
いろいろな方法がすべて間違いであるとが実証済みとなる

いろいろな方法がすべて間違いであるとが実証済みとなる  解脱に達することができたのは、釈尊の説かれた観察方法を実践したからです。したがって、苦を乗り越えるためには観察実践が正しい方法であるということになります。心を清らかにするために、魂を浄化するために、真我を体験するために、などなどの目的を設定して、その目的に達するために世の中でいろいろな方法が説かれています。それらはすべて間違いであると、修行者

 
 
 
自我は存在しないという発見の次に涅槃を経験したのだと分かる

自我は存在しないという発見の次に涅槃を経験したのだと分かる  それから、今現在の心を観察します。何を発見して心が涅槃に入ってしまったのか、観察します。すると、自我は存在しない、成り立たない、因縁によって一時的に起こる現象に対しての勘違いに過ぎない、という発見の次に、涅槃を経験したのだと分かるのです。要するに、「有身見」が消えたのです。修行者は、仏道が正しい道であると経験しています。ですから「疑」も

 
 
 
涅槃とはこの瞬間前に起きた経験であると観察する

涅槃とはこの瞬間前に起きた経験であると観察する  テキストでは、magga 道、phala 果、nibbāna 涅槃、根絶した煩悩、残りの煩悩を観察するのだと説明しています。この順番で観察する必要がある、というわけではありません。修行者は自分が気になる順番で観察すると思います。悟りの経験は並外れた大胆な経験です。そのときは、心さえも存在しなかったのです。修行者は、認識の流れが戻ったら、まずそれを観

 
 
 

コメント


bottom of page