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89 精進すれば達せられないものはない

  • sapporobukkyoujuku
  • 2025年1月4日
  • 読了時間: 1分

 お釈迦様は修行のことを、戦争に行って戦うことにたとえられています。生半可な気持ちでやるならば、勝利に達することはできません、という意味です。修行自体はとても簡単で、シンプルです。けっして苦行ではありません。やりやすいのに、すぐやめたくなるのです。変です。心の中に千五百の煩悩が潜んでいるのです。煩悩は人を苦しみに陥れる、幸福、安らぎ、安穏の敵なのです。煩悩は自分の心を侵攻しているのです。ですから、修行は最前線で戦うことにたとえられています。修行では、わずかでも苦行になることはありません。嘘をつかないことは簡単です。殺生しないことも簡単です。妄想をやめて落ち着いていることも簡単です。嘘をつく、殺生をする、妄想するなどは、ややこしくて難しいです。しかし、煩悩に侵攻されている心が、道徳を守ること、妄想をやめることなどは、ぜったい無理な実践であると勘違いしているのです。そこで精進することが欠かせないのです。精進する人が究極の幸福に達するのです。『一瞬で心を磨くブッダの教え』第2章 仏教の教えを理解する《修行》アルボムッレ・スマナサーラ サンガ出版

 
 
 

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お釈迦様が発見された因果法則

お釈迦様が発見された因果法則では、「Aがあるとき、B が生まれる」ということでA とB の間で必然的な関係が生まれてくるのです。因果法則を語る場合、お釈迦様はtathatā(かくの如き状態、真如、涅槃)、avitathatā(虚妄でない状態、真実なる状態、不異如性、真性、不虚妄性)、anaññathā(不異如に、不異に、真実に)、idapaccayatā(これを縁とすること、縁起の道理、此因性、相

 
 
 
「因果法則」は存在そのものの研究成果

「因果法則」は存在そのものの研究成果  お釈迦様の立場からは、単なる純粋論理pure logic というのは意味がないのです。いくらでも回転していくのですから。純粋論理ではなくて、実践性practicability という、実際の人間の生き方にどれぐらい当てはまるかということ、人間の生き方そのものが一番大事であって、そこを抜きに論理だけを発展させません。お釈迦様は人間が生きていること、存在そのもの

 
 
 
広げていけれど

とにかく論理学を広げていくけれど、なかなか実例は出てこなくなってしまいます。数学の場合も同じことで、いくらでも数学は語れますし、つくれますが、実際の世界では例はなくなってしまうのです。そういうことで、古代インド、お釈迦様の時代では「論理だけ」というのはあまり人気がなかったのです。「お釈迦様は論理的だ」と言われたらすごく気に入らない。そういう評判を聞くと、出かけて行って反論する。黙ってはいないのです

 
 
 

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