top of page
検索

99 業は借金と同じで責任がある

  • sapporobukkyoujuku
  • 2025年1月14日
  • 読了時間: 1分

 業というのは、意志です。何か身口意の行動をしたくなる気持ち、その気持ち自体が業であると考えています。自分の行為の責任を持たなければいけないということです。行為は、絶対的にその人のものになってしまいます。時間が経っても、無常だと言っても、それは効かないのです。行為は、借金と同じなのです。借金という行為は、お金を借りたという一回の行為にすぎませんが、借りがあるということは、返さない限りは、ずっと続くのです。別に実体がなくても、その状況は存続します。人がお金を借りたなら、借りた人が病気になろうが年をとって動けなくなろうが、性転換手術を受けて「お金を借りた人は男だったけど、私は女だ」と言っても、何をやっても、借りたお金は返さなくてはいけません。逃げられないのです。同様に、業から逃げることはできません。自分が行なった行為には、自分に責任があります。自分の行為の結果は、自分で背負わなくてはいけないのです。『一瞬で心を磨くブッダの教え』第2章 仏教の教えを理解する《カルマ》アルボムッレ・スマナサーラ サンガ出版【ブッダの実践心理学 第六巻 縁起の分析p285】

 
 
 

最新記事

すべて表示
観察の汚れ:③ 喜pīti

観察の汚れ:③ 喜pīti  修行中、喜びが湧いてきます。今までも修行が進んでいると喜びを感じた経験があったことでしょう。それは「うまくいっている」という程度の喜びです。しかし、今度のこれはわけが違います。喜びの波が溢あふれ出すのです。何かやり遂げたときの喜びと違って、喜びの波が勝手に現れて、身体中に行き渡ります。終わりそうもない気がします。純粋な喜びなので、何の副作用も見当たりません。「喜び中毒

 
 
 
現象のありのままの姿を観ていることが解脱であるとは言えません

現象のありのままの姿を観ていることが解脱であるとは言えません  ここはとても難しいポイントです。智慧は本物です。観察する三相も現象の本物の姿です。ありのままの姿です。修行者も指導者も、疑問に思う必要はまったくありません。では、なぜ障碍になるのでしょうか。修行者が自分の経験を「これは解脱ではないのか」と解釈したからです。これは、ヴィパッサナー実践する誰もが陥りやすい落とし穴です。  修行者はこの落と

 
 
 
観察の汚れ:② 智慧ñāṇa

観察の汚れ:② 智慧ñāṇa  言葉がないので、ñāṇa を智慧と訳しました。仏教用語としての智慧はpaññā です。そのpaññā ではないと言うために、障碍になる智慧についてパーリ語でñāṇa という言葉を使っているのです。  ここで言うñāṇa とは、ヴィパッサナーの智慧のことです。強烈なスピードで無常・苦・無我が観えるのです。どんな現象を観察しても、その現象は無常・苦・無我に分解されて観え

 
 
 

コメント


bottom of page