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正知

  • sapporobukkyoujuku
  • 4月21日
  • 読了時間: 1分

 Sampajāno の意味は「正知をそなえ」です。たくさんのことを同時にやろうとすると、一つもまともにやったことにはならないのです。全て中途半端なのです。ものごとの理解能力がなくなるのです。何も理解せず、何も発見できず、充分に生きてきました、という実感はなく、人は老いて死ぬのです。お釈迦様は sampajāno という一語で、一般人の生き方と全く違う生き方を提案しているのです。いまの瞬間で何が起きているのかとよく知っておくこと、頭を過去や将来に走らせないこと、妄想や雑念にふけってはいけないことを推薦しているのです。Satimā の意味は「念をそなえ」です。Satiは念と訳するのが慣例です。瞬間瞬間の感覚を言葉で確認すること、ラベリングすることを推薦しています。それは、「念」ずることです。言葉だけ空回りしてしまうこともよくあります。そうなると修行にはなりません。精進することにはなりません。Sampajāno 正知がついてくると、修行なのです。Satiとsampajāna はペアなのです。分かりやすく言えば、足を上げるとき、「上げる」とラベリングしながら上げている足(身体の動き)に気づかなくてはいけないのです。【アルボムッレ・スマナサーラ、大念処経、株式会社サンガ2016、p.45】

 
 
 

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