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正知

  • sapporobukkyoujuku
  • 2025年4月21日
  • 読了時間: 1分

 Sampajāno の意味は「正知をそなえ」です。たくさんのことを同時にやろうとすると、一つもまともにやったことにはならないのです。全て中途半端なのです。ものごとの理解能力がなくなるのです。何も理解せず、何も発見できず、充分に生きてきました、という実感はなく、人は老いて死ぬのです。お釈迦様は sampajāno という一語で、一般人の生き方と全く違う生き方を提案しているのです。いまの瞬間で何が起きているのかとよく知っておくこと、頭を過去や将来に走らせないこと、妄想や雑念にふけってはいけないことを推薦しているのです。Satimā の意味は「念をそなえ」です。Satiは念と訳するのが慣例です。瞬間瞬間の感覚を言葉で確認すること、ラベリングすることを推薦しています。それは、「念」ずることです。言葉だけ空回りしてしまうこともよくあります。そうなると修行にはなりません。精進することにはなりません。Sampajāno 正知がついてくると、修行なのです。Satiとsampajāna はペアなのです。分かりやすく言えば、足を上げるとき、「上げる」とラベリングしながら上げている足(身体の動き)に気づかなくてはいけないのです。【アルボムッレ・スマナサーラ、大念処経、株式会社サンガ2016、p.45】

 
 
 

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お釈迦様が発見された因果法則

お釈迦様が発見された因果法則では、「Aがあるとき、B が生まれる」ということでA とB の間で必然的な関係が生まれてくるのです。因果法則を語る場合、お釈迦様はtathatā(かくの如き状態、真如、涅槃)、avitathatā(虚妄でない状態、真実なる状態、不異如性、真性、不虚妄性)、anaññathā(不異如に、不異に、真実に)、idapaccayatā(これを縁とすること、縁起の道理、此因性、相

 
 
 
「因果法則」は存在そのものの研究成果

「因果法則」は存在そのものの研究成果  お釈迦様の立場からは、単なる純粋論理pure logic というのは意味がないのです。いくらでも回転していくのですから。純粋論理ではなくて、実践性practicability という、実際の人間の生き方にどれぐらい当てはまるかということ、人間の生き方そのものが一番大事であって、そこを抜きに論理だけを発展させません。お釈迦様は人間が生きていること、存在そのもの

 
 
 
広げていけれど

とにかく論理学を広げていくけれど、なかなか実例は出てこなくなってしまいます。数学の場合も同じことで、いくらでも数学は語れますし、つくれますが、実際の世界では例はなくなってしまうのです。そういうことで、古代インド、お釈迦様の時代では「論理だけ」というのはあまり人気がなかったのです。「お釈迦様は論理的だ」と言われたらすごく気に入らない。そういう評判を聞くと、出かけて行って反論する。黙ってはいないのです

 
 
 

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