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在家戒律

  • sapporobukkyoujuku
  • 2025年11月16日
  • 読了時間: 2分

在家戒律 在家にとっての戒律はどうでしょう。在家の仏教徒も解脱を目指します。仏教を実践しなくてはいけないのです。しかも同時に、在家生活も営まなくてはなりません。というわけで、戒律は五項目に集約されています。それはみなさんが知っている五戒です。瞑想実践に入る場合は、修行中なのでいったん在家生活を中止しています。その場合は、八戒か十戒を守ります。 戒律を守ることで、品格のある人間として生きられます。感情を制御しているので、優れた善行為をしていることにもなります。罪を犯さないで生活することができます。社会の中で問題を起こさないので、安心して生きられます。そのような理由から、瞑想実践しない仏教徒も在家戒律を守る努力をするのです。 戒律とはまともな社会人として生きることであると理解するならば、それは宗教的な特別な行ではないことが分かります。しかし一般的には、「戒律」という言葉を聞いただけで敬遠する気持ちになります。要するに、守りたくないのです。これは根本的な煩悩の症状です。生命は自分の感情のままに生きていきたいのです。感情のままに生きることが反社会的な行動になるのだと理解していません。反社会的な生き方をすると、この世界では長生きできませんが、それを分かっていないのです。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p65】

 
 
 

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