top of page
検索

観察の汚れ:② 智慧ñāṇa

  • sapporobukkyoujuku
  • 3月18日
  • 読了時間: 2分

観察の汚れ:② 智慧ñāṇa

 言葉がないので、ñāṇa を智慧と訳しました。仏教用語としての智慧はpaññā です。そのpaññā ではないと言うために、障碍になる智慧についてパーリ語でñāṇa という言葉を使っているのです。

 ここで言うñāṇa とは、ヴィパッサナーの智慧のことです。強烈なスピードで無常・苦・無我が観えるのです。どんな現象を観察しても、その現象は無常・苦・無我に分解されて観えてしまうようになっています。そうなれば、一切は無常であり苦であり無我であると結論に達するのは、いたって簡単です。

 修行者は三相を三つとも観察したりはしません。最初は三つとも観察しますが、集中力が上がると、無常・苦・無我のうち一つに心が集中するのです。その時点になると、言葉としては無常・苦・無我の三相に分かれていても、すべての現象を一つの特性で観るようになっています。これは紛れもなく、智慧なのです。

 本来、智慧は障碍にならないはずです。それが障碍になるとはどういうことか、少々、説明しましょう。「一切現象は苦であると智慧をもって知る人は一切の苦しみを乗り越える」とお釈迦様が説かれます。同じく「一切現象は無常であると智慧をもって知る人は一切の苦しみを乗り越える」「一切法は無我であると智慧をもって知る人は一切の苦しみを乗り越える」とも説かれます。修行者がこの教えを知らないはずは決してありません。今、まさに自分がそのように観察しているのです。現象は無常・苦・無我という以外、何の性質も持っていないのです。このとき、「そこまで知っているならば自分は解脱に達したに違いありません」と、解釈してしまうのです。

【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p122】

 
 
 

最新記事

すべて表示
お釈迦様が発見された因果法則

お釈迦様が発見された因果法則では、「Aがあるとき、B が生まれる」ということでA とB の間で必然的な関係が生まれてくるのです。因果法則を語る場合、お釈迦様はtathatā(かくの如き状態、真如、涅槃)、avitathatā(虚妄でない状態、真実なる状態、不異如性、真性、不虚妄性)、anaññathā(不異如に、不異に、真実に)、idapaccayatā(これを縁とすること、縁起の道理、此因性、相

 
 
 
「因果法則」は存在そのものの研究成果

「因果法則」は存在そのものの研究成果  お釈迦様の立場からは、単なる純粋論理pure logic というのは意味がないのです。いくらでも回転していくのですから。純粋論理ではなくて、実践性practicability という、実際の人間の生き方にどれぐらい当てはまるかということ、人間の生き方そのものが一番大事であって、そこを抜きに論理だけを発展させません。お釈迦様は人間が生きていること、存在そのもの

 
 
 
広げていけれど

とにかく論理学を広げていくけれど、なかなか実例は出てこなくなってしまいます。数学の場合も同じことで、いくらでも数学は語れますし、つくれますが、実際の世界では例はなくなってしまうのです。そういうことで、古代インド、お釈迦様の時代では「論理だけ」というのはあまり人気がなかったのです。「お釈迦様は論理的だ」と言われたらすごく気に入らない。そういう評判を聞くと、出かけて行って反論する。黙ってはいないのです

 
 
 

コメント


bottom of page