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観察の汚れ:① 光obhāsa

  • sapporobukkyoujuku
  • 3月17日
  • 読了時間: 2分

観察の汚れ:① 光obhāsa

 Obhāsa とは光のことです。瞑想中、頭の中にじわじわと光が現れてきます。まぶしくなるほど明るくなる場合もあります。光とは目を開ければ見えるものですが、この光は目を閉じていても見えます。座る瞑想を止めて歩く瞑想などをするときも、この光がどこにでも現れるようになります。当然、そうでない場合もあります。どの程度の光かということは個人差があると思います。目で光を見るのは普通に起きていることですが、強い光に当たるとまぶしくて決して楽な経験にはなりません。突然、強烈な光が目に入ったら、一時的に目が見えなくなることもあります。

 困ったことに、瞑想中に出てくる光にはこのような問題がありません。困るどころか、修行者は喜びます。この喜びが執着に変わります。一番困ることは、「これこそが悟りの光である」と解釈することです。そうなると、まだ悟りに達していないのに、悟ったつもりになるのです。修行を終了してしまうのです。ですから邪魔です。障碍です。とはいっても、現れるときは現れます。

 決して「光が現れてほしい」と期待してはなりません。修行中、光の障碍に邪魔されることがない修行者もいます。光が現れたら、それもそのまま観察する。放っておく。「光とは一つの現象であって、解脱ではない」と理解しておくことです(この光は他宗教で推薦している光明体験より優れているものです。神秘体験者たちが経験する光よりも優れているのです。この光は自己管理できるものです)。

【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p121】

 
 
 

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