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小預流者

  • sapporobukkyoujuku
  • 2月22日
  • 読了時間: 1分

小預流者


 度疑清浄に達した修行者のことをcūḷa-sotāpanna 小預流者とも言います。『アビダンマッタサンガハ』テキストの註釈294 ページに出ています。 因縁法則が分かったら、世の中に蔓延している宗教・信仰・哲学などについて、未練は感じなくなります。自分は正解を知っているのです。突然、仏教に飽きて、もっと派手で楽しい信仰にでも行こうかな、という気持ちは一切起こりません。その人は、眼耳鼻舌身意に色声香味触法という対象が触れると、貪瞋痴の煩悩の流れが生まれてしまうことが気になります。因縁も知っているのに、どうして自我・自分という錯覚が未だにうろついているのか、ということも気になります。さらに集中して実践を進めて、煩悩をつくりだす自我の錯覚をなくしたい、という気持ちは揺るぎません。預流果に達するのはもう少々あとの話ですが、今も逆戻り不可能な状態になっています。預流果に達したら、逆戻り不可能な状態が確定します。

 
 
 

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