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anattā asārakaṭṭhena ─実体でないという意味で無我

  • sapporobukkyoujuku
  • 3月5日
  • 読了時間: 1分

anattā asārakaṭṭhena ─実体でないという意味で無我

 修行者は、現象が現れては消える流れを観察しています。一つ一つの現象は小さな泡のようで、それが弾けて次の小さな泡が現れるような感じになります。

 現象の中に何か芯のようなもの、種のようなもの、要するに実体のようなものがあるならば、一時的な現象が弾けてもその実体が残るはずです。カバンが破れたら、その中身が落ちてよく分かるようになります。しかしカバンが空っぽなら、破れたら破れただけでそれ以上の結果はありません。

 現象の流れの場合は、一個一個の現象の泡が弾けて、次の現象が現れます。どこにも「実体」と言えるものは見つかりません。特に人は、自分とは何かという問題に最大の興味を持っています。それに関する哲学もたくさん現れています。

 ヴィパッサナー実践が進んだ修行者は、自分という実体は成り立たないこと、存在もしない一時的な現象に、仮に「自分」と名付けるだけであることを発見します。このように無我を観察することになります。「無我だ、無我だ」と念じるものではありません。

【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p115】

 
 
 

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