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saddhā よりadhimokkha という心所が優先すると嫌われる

  • sapporobukkyoujuku
  • 3月28日
  • 読了時間: 1分

saddhā よりadhimokkha という心所が優先すると嫌われる

Adhimokkhaは必要悪のような心所です。認識するためには欠かせない心所です。さまざまな宗教を信仰する人々を外から見て、盲信しているのではないか、他のことが見えてないのではないか、頭が何も理解しない頑固な状態になっているのではないか、と思った経験があるでしょう。原理主義者になって、犯罪行為までしてしまう人々も結構いるでしょう。これは他宗教に限った問題ではありません。「お釈迦様の教えこそ正しいのだ。他宗教どころか大乗仏教も断然、間違っているのだ。私は本当のお釈迦様の教えに出会えて幸せものだ」などと言う人もいます。結局は周りから嫌われます。

 このように言う人は、それなりの理解があって、言葉上、本当のことを言っているかもしれません。では、なぜ嫌われるのでしょうか? それはsaddhā よりadhimokkha が優先になっているからです。Saddhā の強い人は明るいです。皆に好かれます。他人はその人の話を聴きます。しかしsaddhā という心所よりadhimokkha という心所が優先すると、好かれるどころか嫌われて終わります。Saddhā 自体は何の問題も起こしません。

【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p128】

 
 
 

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