top of page
検索

「心を汚してはならない」という一項目

  • sapporobukkyoujuku
  • 2025年11月14日
  • 読了時間: 2分

「心を汚してはならない」という一項目 他宗教でも項目戒律があります。厳密に戒律項目の数を決めることは不可能であるにもかかわらず、十戒などの戒律を断言するのは問題です。しかし、宗教家たちは自分勝手に、時代の要求に応じて規則を作ります。それに反対する人々も現れます。そして宗教組織としての調和が乱れて、分派してしまいます。 社会も戒律項目を決めています。どんな社会であっても、その社会において「あってはいけないこと」があります。政府も法律という戒律項目を決めます。また、各家族にも、家族の決まりというものがあるようです。学校には校則があり、会社には社則があります。守らなければ、社会の一員としての自分の地位が危ういものになります。このような規則は、社会の秩序と繁栄を目指して定められるものです。これらの規則の数も、無数です。憶えるのは大変です。実際には誰も憶えていません。しかし皆、法律と規則を守って、なんとか無事に生きています。 日本の社会では、無数にある規則を「他人に迷惑をかけてはならない」という一項目に見事にまとめています。同様に、仏教の場合は、「心を汚してはならない」という一項目にまとめています。現代的に言い換えます。「心の煩悩をかきたててはならない」。この一項目に尽きます。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p64】

 
 
 

最新記事

すべて表示
お釈迦様が発見された因果法則

お釈迦様が発見された因果法則では、「Aがあるとき、B が生まれる」ということでA とB の間で必然的な関係が生まれてくるのです。因果法則を語る場合、お釈迦様はtathatā(かくの如き状態、真如、涅槃)、avitathatā(虚妄でない状態、真実なる状態、不異如性、真性、不虚妄性)、anaññathā(不異如に、不異に、真実に)、idapaccayatā(これを縁とすること、縁起の道理、此因性、相

 
 
 
「因果法則」は存在そのものの研究成果

「因果法則」は存在そのものの研究成果  お釈迦様の立場からは、単なる純粋論理pure logic というのは意味がないのです。いくらでも回転していくのですから。純粋論理ではなくて、実践性practicability という、実際の人間の生き方にどれぐらい当てはまるかということ、人間の生き方そのものが一番大事であって、そこを抜きに論理だけを発展させません。お釈迦様は人間が生きていること、存在そのもの

 
 
 
広げていけれど

とにかく論理学を広げていくけれど、なかなか実例は出てこなくなってしまいます。数学の場合も同じことで、いくらでも数学は語れますし、つくれますが、実際の世界では例はなくなってしまうのです。そういうことで、古代インド、お釈迦様の時代では「論理だけ」というのはあまり人気がなかったのです。「お釈迦様は論理的だ」と言われたらすごく気に入らない。そういう評判を聞くと、出かけて行って反論する。黙ってはいないのです

 
 
 

コメント


bottom of page