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ありのままに観察する

  • sapporobukkyoujuku
  • 4月27日
  • 読了時間: 1分

人が「私は西洋人が好きです。アジア人が嫌いです」と言ったとしましょう。それはその人の主観で、好き嫌いで、偏見なのです。西洋人が良い人間で、アジア人が悪人だということにはならないのです。このような態度を取ると、西洋人はどんな人間か分からなくなりますし、アジア人もどんな人間か分からなくなるだけです。主観的な気づきはこのようなもので、修行して真理を発見する世界とは、天と地の差なのです。正しい気づきとは、一切の主観、偏見、先入観、思考、妄想、好き嫌い、感情などをカットして、客観的にありのままに観察することです。仏教が推薦する気づきは、決してたやすいものではありません。真剣まじめな修行の一種です。諸々の修行方法のなかでも、難しいものだと思っても構わないのです。【アルボムッレ・スマナサーラ、大念処経、株式会社サンガ2016、p.50】

 
 
 

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