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確固たる真理を確認する

  • sapporobukkyoujuku
  • 7月13日
  • 読了時間: 2分

確固たる真理を確認する そこで、彼が確実に確認するのです。何をでしょうか? atthi kāyo 世のなかにあるのはこのような身体、このいままで観察したような状態の身体なのだ、と。確実に確固たる真理はそういうことだ、と確認するのです。その確認したことは変化しないのです。身体とはこのようなものである、という理解が生まれて来ます。それは、yāvadeva ñāṇamattāya この適度の智慧に繋がっていく。patissatimattāya 適度の気づきに繋がっていく。いわゆるsati が入った(確立した)状態になるのです。 どんな身体でも、いま自分が観察している身体と同じ状態になる。身体は色々なものからできていて、また毎日壊れて欠けていく。最終的に死んでしまったらこのように腐ってしまう。ただそれだけ。食べ物のことやら、職業のことやら、経済的なことやら、おしゃれのことやら、私たちが世間で繰り広げる大騒ぎは、結局、「身体」を維持するためのものに過ぎないのです。身体の観察をする人は、「そんなことで騒ぐ必要があるものか」と落ち着いて生きられます。Anissito ca viharati この人は世のなかに対してあれをやりたい、これが欲しい、といって困ったり悩んだり、混乱したりすることは何もなくなってしまう。全て無意味ということが分かって、すごく落ち着くのです。na ca kiñci loke upādiyati 何ものにもとらわれることがない。Evampi kho bhikkhave bhikkhu kāye kāyānupassī viharati そのように、身体の瞑想でそれぐらいのことは得られるのです。 【アルボムッレ・スマナサーラ、大念処経、株式会社サンガ2016 p112】

 
 
 

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