top of page
検索

お粥とおにぎり

  • sapporobukkyoujuku
  • 2025年12月29日
  • 読了時間: 1分

お粥とおにぎり 無数のはたらきがあって、世は成り立っています。そして、一つのはたらきが別のはたらきと一緒になって機能する場合が多いです。プラスティックの筒は一つのはたらき。インクが入っている筒は別なはたらき。ペン先のベアリングは別なはたらき。キャップは別なはたらき。それぞれのはたらきを合わせたところで、「ボールペン」という現象が見えてきます。 仏教は「ものは存在する」という実体論は正しくないとします。実体はないのです。はたらきがあるのです。ものごとのはたらきを発見すると、実体論が間違っていると理解できます。ものごとに名前を付ける場合は、はたらきを考慮するのです。お粥とおにぎりと言えば、中身は同じですが、別々な現象です。それぞれのはたらきが違います。お粥だと勘違いしておにぎりを食べたり、おにぎりだと勘違いしてお粥を食べたりはしません。このようにして、違うはたらきをするから違うものが存在するのだ、という認識が生まれます。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p87】

 
 
 

最新記事

すべて表示
現象のありのままの姿を観ていることが解脱であるとは言えません

現象のありのままの姿を観ていることが解脱であるとは言えません  ここはとても難しいポイントです。智慧は本物です。観察する三相も現象の本物の姿です。ありのままの姿です。修行者も指導者も、疑問に思う必要はまったくありません。では、なぜ障碍になるのでしょうか。修行者が自分の経験を「これは解脱ではないのか」と解釈したからです。これは、ヴィパッサナー実践する誰もが陥りやすい落とし穴です。  修行者はこの落と

 
 
 
観察の汚れ:② 智慧ñāṇa

観察の汚れ:② 智慧ñāṇa  言葉がないので、ñāṇa を智慧と訳しました。仏教用語としての智慧はpaññā です。そのpaññā ではないと言うために、障碍になる智慧についてパーリ語でñāṇa という言葉を使っているのです。  ここで言うñāṇa とは、ヴィパッサナーの智慧のことです。強烈なスピードで無常・苦・無我が観えるのです。どんな現象を観察しても、その現象は無常・苦・無我に分解されて観え

 
 
 
観察の汚れ:① 光obhāsa

観察の汚れ:① 光obhāsa  Obhāsa とは光のことです。瞑想中、頭の中にじわじわと光が現れてきます。まぶしくなるほど明るくなる場合もあります。光とは目を開ければ見えるものですが、この光は目を閉じていても見えます。座る瞑想を止めて歩く瞑想などをするときも、この光がどこにでも現れるようになります。当然、そうでない場合もあります。どの程度の光かということは個人差があると思います。目で光を見るの

 
 
 

コメント


bottom of page