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お釈迦様の三十二の分け方

  • sapporobukkyoujuku
  • 2025年6月16日
  • 読了時間: 1分

お釈迦様の三十二の分け方 不浄随観という瞑想の場合は、身体を三十二の不浄に分けるのが普通です。その場合は、身体を三十一に分けるリストの三十一種類に脳みそも入れるのです。 ヴィパッサナー実践の一環として不浄随観を説明するときは、三十一種類の不浄になります。このリストは別に医学的な分析ではありません。だからと言って間違っている訳でもない。身体にあるものは全部入っています。人々に医学的な知識を与える目的は、お釈迦様にありません。お釈迦様は解脱に達する方法を説かれるのです。心の汚れをなくし、智慧が現れ、一切の執着を絶って、解脱に達するために、お釈迦様の説かれた分析に合わせて身体を観察しなくてはいけないのです。身体の臓器に医学的な説明が入ると、生存欲が増してしまうのです。欲をなくすためには、身体の臓器は不浄として観なくてはいけないのです。お釈迦様の三十二の分け方は、医学者の分析よりは誰にでも分かりやすいのです。当時の人々にはすごく観察しやすかっただろうと思います。【アルボムッレ・スマナサーラ、大念処経、株式会社サンガ2016 p90】

 
 
 

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