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すべてのnāma が無常である、すべてのrūpa が無常である

  • sapporobukkyoujuku
  • 3月10日
  • 読了時間: 1分

すべてのnāma が無常である、すべてのrūpa が無常である

『清浄道論』では、五蘊が無常・苦・無我であると観察するのだと説明してから、五十種類の無常の観察方法、二十五の無我の観察方法、百二十五の苦の観察方法などが説かれています。要するに、ありとあらゆる側面から無常・苦・無我を観察するのです。

 五蘊が無常・苦・無我であると観察するのが基本です。しかし修行者が、五蘊とは何であろうかと困ったりするならば、実践はうまく進みません。自分が観察する現象を五蘊に分けることができなくても、かならず五蘊のいずれかなのです。『清浄道論』が五蘊に集中して解説するのは、お釈迦様が無常・苦・無我の観察を五蘊の観察の仕方として説かれているからです。しかしこの段階の修行者は、nāma とrūpa を区別する能力を持っています。Nāma-rūpa の因縁関係も知っています。その智慧を使って、「すべてのnāma が無常である、すべてのrūpa が無常である」のような観察も実践しやすいと思います。

【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p118】

 
 
 

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