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まさにこの身体を観察する

  • sapporobukkyoujuku
  • 6月14日
  • 読了時間: 2分

まさにこの身体を観察する 主観的な感情や価値観を一切捨てて観る必要があるので、imameva kāyaṃ(まさにこの身体を)という言葉を使っています。「自分の身体(attano kāyaṃ)」という言葉さえも使っていないのです。自分の、という一言があっただけでも、感情が湧きあがる可能性があるのです。お釈迦様の言葉遣いは、微妙に精密であった、というべきです。髪の毛から下、足の裏から上、皮膚に囲まれたそのなかに、色んなものがpūraṃ いっぱいに満たされているのです。何に満たされているのかというと、nānappakārassa asucino 気持ち悪くなる、不浄と感じるものばかり、なのです。Asuci は不浄と訳します。Suci は浄らかな、素晴らしいという意味です。仏教では決して、suci を身体に対する形容詞として使いません。心が貪瞋痴から解放された場合、心に対してのみ、suci という形容詞を使うのです。Asuci という言葉に、不浄という意味以外、気持ち悪い、不潔、たちさわってはいけない、というニュアンスもあります。便にもasuci というのです。瞑想実践とは、人の心にある非論理的な汚れた感情をなくすことです。ですから、肉体を不浄として観察するときも、不潔、気持ち悪い、たちさわってはならない、というニュアンスも入れたほうが良いのです。身体というこの物体は、上は髪の毛、下は足の裏、周りは皮膚で囲まれています。それから、その中身はどのようなものかと、paccavekkhati 観察するのです。 【アルボムッレ・スマナサーラ、大念処経、株式会社サンガ2016】

 
 
 

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