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ものごとを「観る」

  • sapporobukkyoujuku
  • 6月20日
  • 読了時間: 1分

ものごとを「観る」 両方に口のある袋が、種々の穀物に満ちているのを観察するように身体のなかを観たら、この肉体を構成している三十一種類の不浄が簡単に見られます。ヴィパッサナー瞑想の場合は、ものごとを「観る」だけです。観るものについて、考察したり、議論したりする必要はありません。「肉体というものは、髪の毛、皮膚、骨、心臓、腎臓などでできているものだ」という程度の観方で結構です。身体に対する、我々の妄想概念がなくなれば結構です。抱きしめて、決して離しはしない、というように愛着・執着すべきものではないと理解することです。【アルボムッレ・スマナサーラ、大念処経、株式会社サンガ2016 p93】

 
 
 

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