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一切のnāma とrūpa は危険極まりのないものであると、さらに強烈に発見する

  • sapporobukkyoujuku
  • 5月10日
  • 読了時間: 2分

一切のnāma とrūpa は危険極まりのないものであると、さらに強烈に発見する

 Paṭisaṅkhā の意味を考えてみましょう。「これだからこうなっている。こうすればこのような結果になる」といった観察です。日常生活では普通におこなう作業です。例えば、このスイッチの上の方を押せば電気が点く、下の方を押せば電気が消える、などなどの観察です。その能力がないと、生きていられません。それは俗世間の能力です。

 修行者は一切の現象を観察しています。脱欲智が生まれたので、脱出する目的を持って再び一切の現象を観察します。ですから、「これを押したらこうなる」というような感じの観察が必要になります。

 仏教が推薦する脱出の境地は、世間常識では絶対、理解できるものではありません。ですからlokuttara と言うのです。Uttara とは、超越という意味です。Loka とは、世間という意味です。超世間と訳さなくてはいけなくなりますが、理解できる単語ではありません。一般的には「出世間」という言葉を使っています。

 修行者の認識レベルは、今は常識レベルをはるかに超えています。これ以上超えられないという頂点に近づいているのです。常識を超えて、認識レベルを頂点に達するまで成長させるべきなのです。そのために、脱欲智に基づいて一切の現象を観察します。一切のnāma とrūpa は危険極まりのないものであると、さらに強烈に発見するのです。この観察はpaṭisaṅkhā ñāṇa 省察智と言います。

【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p148】

 
 
 

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