top of page
検索

三つの側面

  • sapporobukkyoujuku
  • 2025年5月28日
  • 読了時間: 1分

三つの側面 内・外・内と外という三つの側面から観察ができたら、atthi kāyo 身体があるのみ、という気づきが生じます。ここで誤解に陥ってはならないのです。この瞑想で身体(kāyo)というのは、行住坐臥とその他の威儀のことです。いわゆる普遍的に、いかなる生命にも起こる威儀という機能なのです。威儀とは無常で、原因によって起こるものであるということは明確です。自我も実体も成り立たない、ということも明確です。この威儀こそが、生命であり、命であり、自分なのです。何の中身もないので、「空」なのです。【アルボムッレ・スマナサーラ、大念処経、株式会社サンガ2016.p77】

 
 
 

最新記事

すべて表示
お釈迦様が発見された因果法則

お釈迦様が発見された因果法則では、「Aがあるとき、B が生まれる」ということでA とB の間で必然的な関係が生まれてくるのです。因果法則を語る場合、お釈迦様はtathatā(かくの如き状態、真如、涅槃)、avitathatā(虚妄でない状態、真実なる状態、不異如性、真性、不虚妄性)、anaññathā(不異如に、不異に、真実に)、idapaccayatā(これを縁とすること、縁起の道理、此因性、相

 
 
 
「因果法則」は存在そのものの研究成果

「因果法則」は存在そのものの研究成果  お釈迦様の立場からは、単なる純粋論理pure logic というのは意味がないのです。いくらでも回転していくのですから。純粋論理ではなくて、実践性practicability という、実際の人間の生き方にどれぐらい当てはまるかということ、人間の生き方そのものが一番大事であって、そこを抜きに論理だけを発展させません。お釈迦様は人間が生きていること、存在そのもの

 
 
 
広げていけれど

とにかく論理学を広げていくけれど、なかなか実例は出てこなくなってしまいます。数学の場合も同じことで、いくらでも数学は語れますし、つくれますが、実際の世界では例はなくなってしまうのです。そういうことで、古代インド、お釈迦様の時代では「論理だけ」というのはあまり人気がなかったのです。「お釈迦様は論理的だ」と言われたらすごく気に入らない。そういう評判を聞くと、出かけて行って反論する。黙ってはいないのです

 
 
 

コメント


bottom of page