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三つの側面

  • sapporobukkyoujuku
  • 5月28日
  • 読了時間: 1分

三つの側面 内・外・内と外という三つの側面から観察ができたら、atthi kāyo 身体があるのみ、という気づきが生じます。ここで誤解に陥ってはならないのです。この瞑想で身体(kāyo)というのは、行住坐臥とその他の威儀のことです。いわゆる普遍的に、いかなる生命にも起こる威儀という機能なのです。威儀とは無常で、原因によって起こるものであるということは明確です。自我も実体も成り立たない、ということも明確です。この威儀こそが、生命であり、命であり、自分なのです。何の中身もないので、「空」なのです。【アルボムッレ・スマナサーラ、大念処経、株式会社サンガ2016.p77】

 
 
 

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