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三相:① 無常相anicca-lakkhaṇa

  • sapporobukkyoujuku
  • 2025年9月11日
  • 読了時間: 1分

三相:① 無常相anicca-lakkhaṇa  よく観察してみると、無常だから生きているのだと分かります。瞬間瞬間、身体と心が変わらないと、生きているとは言えません。三十秒くらいでも心臓が止まったら、どうなることでしょうか。あるいは、変化することなしに、噴水が成り立つでしょうか。瞬間瞬間、音が変化しないで、音楽があり得るでしょうか。このように、どんな現象でも、客観的に観察してみると、かならずそれが変化していること、変わっていくこと、別な現象になること、一定しないことを発見するのです。一般的に言われる「生きている」「存在する」とは、無常のことであると理解するのです。無常たる現象に執着することは、無知な行為なのです。執着のせいで、かならず悩み、苦しみに陥ります。現象をそのまま放っておいて無執着になれば、心は揺るぎない安穏に達します。理性と客観性がある人は誰でも、ものごとを観察すると無常を発見します。ですからお釈迦様は、一切の現象の実相として、最初に無常を説かれたのです。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p24】

 
 
 

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とにかく論理学を広げていくけれど、なかなか実例は出てこなくなってしまいます。数学の場合も同じことで、いくらでも数学は語れますし、つくれますが、実際の世界では例はなくなってしまうのです。そういうことで、古代インド、お釈迦様の時代では「論理だけ」というのはあまり人気がなかったのです。「お釈迦様は論理的だ」と言われたらすごく気に入らない。そういう評判を聞くと、出かけて行って反論する。黙ってはいないのです

 
 
 

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