top of page
検索

三相:③ 無我相anatta-lakkhaṇa

  • sapporobukkyoujuku
  • 9月14日
  • 読了時間: 2分

三相:③ 無我相anatta-lakkhaṇa

 お釈迦様は、皆と違ったアプローチをされました。当時でも、修行する人々は、誰でもまずは「魂がある」と信じなくてはいけなかったのですが、お釈迦様はそれをやめたのです。まずは「魂がある」という前提が成り立つのか、正しいのかと調べたのです。そして因果法則を発見されました。「ものがある」という言葉も、「ものがない」という言葉も、極論です。成り立たないのです。ものごとは「これがあるから、これがある。これが起こると、これも起こる。これがないときは、これもない」というように、因縁によって成り立ちます。現象には、魂も核も芯も種もないのです。

 すべては無常ですから、変化しないものは何もあるはずがないのです。しかし瞑想実践として、いきなり無我の観察が皆にできるとは思いません。無我の観察は、「なぜ、どのように?」という問いに興味を抱く性格の人々に適しています。「なぜ、どのように?」という問いを抱きながら、客観的に現象を観察すると、かならず「無我」という真理を発見します。自分の命と同様に、一切の現象はうたかたのような存在と知るならば、心から執着が消えるのです。智慧が現れて、解脱に達します。無我とは、「変わらぬ実体が成り立たない」という意味です。

【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p27】

 
 
 

最新記事

すべて表示
vipassanā-ñāṇa 観智 ①~⑤

vipassanā-ñāṇa 観智 ①~⑤ ヴィパッサナー実践をする修行者は、まず客観的に観察して、生きるとは何かとデータを集めます。そして ①思惟智が現れます。命とは生滅している流れである、と発見します。次に ②生滅智が現れます。現象は派手に壊れるものである、と発見します。次に ③壊滅智が現れます。今まで生きることに喜びを感じましたが、今度は生きることに対して、恐怖を感じるのです。そして ④怖畏

 
 
 
命は儚い

命は儚い 命には無上の価値があるとしっかり信じてはいるものの、同時に「死ぬのは怖い」とも思っているのです。命に無上の価値があるといって強烈に執着していますが、現実は違います。命は儚いものです。あっけなく死にます。苦労して、やっと命を繋いでいるだけです。それを頭では理解することができます。しかし、気持ちは変わりません。 命には無上の価値があるという錯覚と、命はあっけなく壊れる儚いものであるという現実

 
 
 
観智:⑤ 過患智は無価値の発見

観智:⑤ 過患智は無価値の発見 次の智慧は、過患智ādīnava-ñāṇa です。Ādīnava というのは、disadvantage ということで、「悪いところだけを見る」ということです。ものには長所と短所の両方がありますが、短所だけ見えてしまうということです。「ものごとに長所も短所もあるのだから、あえて短所だけ取り出すことは、悲観主義者のやり方ではないでしょうか? 偏見ではないでしょうか?」そ

 
 
 

コメント


bottom of page